3月場所で1横綱3大関に勝ち11勝・5月場所でも3大関に勝ち11勝し二場所連続で11勝4敗の成績を挙げ、大関取りとなった7月場所は初日から9連勝し横綱・武蔵丸に勝ち終盤まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、場所後にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進した[6]。入幕から所要10場所での大関昇進であった[4]。21歳9か月での大関昇進は当時3位の年少記録だが、後に白鵬(21歳0ヶ月)に破られている[12]。, 新大関の場所となる2002年9月場所には11日目まで9勝1敗と優勝争いの先頭を走り、この場所が長期休場明けであった2敗の貴乃花と結び前で対戦。対戦前にはインタビューした刈屋富士雄アナウンサーに「(前回の対戦で一方的に負けているだけに)何としても今日はいい相撲で勝ちたい」とコメントしたが、結果的に及ばず、立合いから強烈なのど輪押しで攻め、貴乃花の逆襲を凌ぎ投げで崩して攻め立てるもまわしを取られて前に出てこられ、外掛けで崩しつつ前に出ようとするところを上手投げで土俵正面に投げつけられて敗北した。この日中入り後解説を務めた同じ高砂一門の先輩横綱である曙(第64代横綱)は「二人に拍手を送りたい」と言ったほどの好取組であったが、取組前のインタビューで「自分にとって非常に大事な一番」と位置付けていた朝青龍の悔しがり方は尋常ではなく、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫ぶ姿がNHKの大相撲中継で放送され、取り組み後のインタビューで「ケガした足を蹴ればよかった」と語るなど物議を醸した。しかしこれが朝青龍と貴乃花の最後の取組となり、貴乃花は翌11月場所を全休、2003年1月場所の8日目限りで現役引退。結局朝青龍は貴乃花に2戦2敗と、一度も勝つことが出来なかった[5][6]。, 9月場所はこの敗戦が響いて10勝5敗で終わったものの、翌11月場所は上位陣総崩れの中、14勝1敗で念願の幕内初優勝を達成。また2002年は、自身初となる年間最多勝も獲得した。綱獲りとなった2003年1月場所は、9日目の海鵬戦で敗れた際左足薬指脱臼と脹脛肉離れの怪我を負ったが、その後も負傷を感じさせない力強い相撲で14勝1敗、大関の地位で2場所連続優勝を達成した。1月場所千秋楽翌日の横綱審議委員会では、一部の委員(脚本家で唯一の女性横審委員だった内館牧子など)から「成績は申し分ないが、品格の面で問題があり」などの意見が出たものの、結果的には朝青龍の第68代横綱へ昇進が決まった。初土俵から25場所での横綱昇進は年6場所制では最速[4]。横綱昇進伝達式では「これからはなお一層稽古に精進し、横綱として相撲道発展のために一生懸命頑張ります」と口上を述べた[13]。なお横綱土俵入りは、高砂一門伝統の雲龍型を選んだ(土俵入りの指導者は同じ高砂一門で、当時東関部屋付きの親方だった曙)。朝青龍の土俵入りは砂を噛むかのような足の動きに大きな特徴があり、NHKの大相撲放送でもたびたび足が大写しになった。, 2003年、モンゴル人女性と結婚、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の旭鷲山戦では髷を掴んだことにより横綱としては史上初めて反則負けとされ[4]、取組後の風呂場では口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊した[14][6]。同場所は頸部挫傷により10日目から途中休場した。, 前2003年11月場所限りで武蔵丸が引退したことにより、2004年1月場所の番付で朝青龍は史上8人目の一人横綱となる。先輩横綱達の引退も朝青龍のワンマン時代が実現する要因となった[4]。なお同1月場所は千秋楽に栃東を押し出しで下し、自身初の全勝優勝を達成した。続く3月場所では、千秋楽に1敗で追う千代大海を引き落としで破り、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。この場所は、11日目まで朝青龍、魁皇、千代大海、朝赤龍が全勝であり、初日から4力士が11日目まで勝ちっぱなしという史上初の快挙が成し遂げられている[15]。, 5月場所は、6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力戦で一方的に敗れてしまい、連勝記録が「35」(史上6位)でストップ。最終的にこの場所は13勝2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が立合いの変化で北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝って迎えた優勝決定戦で北勝力を破り逆転で3場所連続優勝を達成。部屋、一門の枠を超えて白鵬と喜びを分かち合った。, 7月場所も13勝2敗で優勝。9月場所では終盤に4連敗を喫し9勝6敗と横綱の地位で15日間皆勤して初の一桁勝ち星に終わった[16]。11月場所では14日目に優勝を決めたが千秋楽に魁皇に敗れ13勝2敗で終えた。2005年1月場所では3回目の全勝優勝を決めた。3月場所では13日目に栃東に敗れ、連勝記録が27でストップするが14勝1敗で三連覇を達成した。5月場所では14日目に優勝を決め、1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝を達成した。7月場所では8日目に琴欧州に敗れ連勝記録が24でストップするが、5連覇を達成(海外出身力士として武蔵丸を抜き史上最多の13回目の優勝)、9月場所は琴欧州に星の差2つを付けられていたが、琴欧州との直接対決で勝って差を縮める、最終盤で琴欧州が自滅し決定戦へ、そして逆転で優勝。11月場所では13日目に琴欧州に敗れるが、14日目に魁皇を寄り切って2004年11月場所から7場所連続優勝[17]、2005年には年間6場所完全優勝[18]、年間成績84勝6敗[19]など、様々な記録を更新した。, 8連覇を目指した2006年1月場所では11勝4敗に終わる。翌3月場所は13勝2敗で優勝したものの白鵬に決定戦進出を許し、5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場するなど、同年前半は力の衰えも指摘され始めた。なお同場所で朝青龍が休場したことにより、出場している横綱が一人もいない、いわゆる「横綱不在」となった[20]。, しかし7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。同場所千秋楽翌日の1月22日、『週刊現代』に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍を始めとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。詳細は武田頼政を参照。, 翌3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し13勝2敗で優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。, さらに5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。翌7月場所の番付は白鵬が新横綱となり、朝青龍の一人横綱も21場所で止まった(一人横綱の最長記録である)。その同7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。それでも2日目からは14連勝して14勝1敗で3場所ぶりの優勝、白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに、完全復活を果たしたかに見えた。, 場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出[21]。巡業部は帰国後の巡業参加を拒否する方針を固め[22]、8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4カ月、11月場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた[4]。処分の理由について伊勢ノ海親方は、診断書の内容から詐病の可能性を否定した上で「横綱として誤解を招く行動で、軽率だったため」とした[23]。, 当時の理事長北の湖親方はこの際「あいつは意外と気が小さいから」と述べて、角界から朝青龍が去ってしまう可能性を危惧したとも言われている[24]。また同時に師匠の高砂親方も減俸30%4ヶ月の処分を受けた。この処分に対し日本並びにモンゴルのマスメディアが大々的に報道、在モンゴル日本大使館ではこの処分に対して市民が抗議デモを起こした。また在日モンゴル大使館は7月31日、「サッカーはモンゴル国主催のチャリティー大会のイベントであり、日本外務省を通じ半ば強引に参加を要請したもので、大変なこととなり迷惑をお掛けした」と日本相撲協会に対し謝罪した[25]。27日には、日本経済新聞等で「東京国税局の税務調査を受け、テレビ番組やCMの出演料などの一部を申告していなかったなどとして、2005年までの3年間で約1億円の申告漏れを指摘されていた」ことが報道された。追徴税額は過少申告加算税を含め約3000万円であった。, 8月6日には、心療内科医・本田昌毅の往診により「神経衰弱および抑うつ状態」との診断を受けていた[26]ものの、後に協会医務委員会が紹介した精神科医により解離性障害と診断されたと発表。協会は謹慎処分を一部訂正しモンゴルへの帰国を承認した。これを受け同月29日に治療をするとしてモンゴルへ帰国した。, 9月場所を出場停止処分により全休したため、11月場所では新横綱であった2003年3月場所以来となる西横綱となった。, 11月場所千秋楽(11月25日)を終えたため、当初の決定通り謹慎を解除され、11月30日にはモンゴルから93日ぶりに再来日した。同日夕方に謝罪会見を開き、朝青龍本人が一連の騒動について謝罪し、会見後は臨時横綱審議委員会(横審)で謝罪と経緯説明を行った。なお海老沢勝二横審委員長(元日本放送協会会長)や、「朝青龍の天敵」と言われた内館牧子横審委員などからは「今後再び同じような失態を起こした場合は、引退勧告も辞さない」と忠告された。, 12月2日から冬巡業に参加して、7月場所千秋楽以来133日ぶりに土俵に復帰した。初日の横綱白鵬戦では寄り切りで勝利した。, 12月21日朝、横審委員の内館牧子が事前通告なしに稽古を視察するため高砂部屋を訪れたが、朝青龍は稽古休みで不在だった。内館は後日、朝青龍に対し「癌を克服し現役に復帰したプロレスラーの小橋建太を見ならいなさい」と発言した。なお朝青龍は引退後、2014年12月にNEWSポストセブンの記事において、現役中に受けた内館の辛辣な発言について、笑みを浮かべつつ「内館さん、元気に生きてますか?彼女の辛口も、私を強くしてくれたと思うよ」と述懐していた[27]。, 2008年1月13日、1月場所で前年7月場所以来の本場所復帰。約5年ぶりの西横綱となったためか、初日の土俵入りの際、西横綱は本来は左足から土俵中央へ歩み寄るところを、長年東横綱として君臨していた癖で、右足を先に出すというミスも見られるなど、当初は2場所ぶりの復活で「相撲勘」を取り戻せるかどうかが話題となった。注目された初日・琴奨菊戦は快勝したものの、2日目・稀勢の里戦は豪快な送り倒しを決められ、早くも土がついた。また3日目には観戦していた内館を土俵上で睨みつける(本人は否定)[28]など、本来の横綱の風貌が戻ってきた。その後は不安定な取り組みがありながらも勝ち星を積み重ね、14日目まで1敗で東横綱の白鵬と並び、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花戦以来、約5年半ぶりの横綱同士による千秋楽相星決戦となったが、過去に類を見ない白熱した大一番の末、白鵬に豪快な上手投げで破れた。, 2008年3月場所では11日目までは全勝で、2敗で追う白鵬を引き離していたが、12日目で土がつき、翌13日目では対朝青龍戦28連敗中だった大関琴光喜が、連敗記録歴代2位[29]という屈辱の記録に終止符を打った。そして14日目には両横綱共に12勝2敗で並び、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍が小手投げで勝利し22回目の優勝を決め、大きくガッツポーズをとった。この優勝で優勝回数が貴乃花と並んだ。, 2008年5月場所、琴欧州に負けてから失速し11勝。さらに千秋楽の白鵬戦で勝負決着後の土俵上で、白鵬と睨み合いになり両者とも厳重注意を受けた。, 2008年7月場所では、場所前の稽古不足や右足首痛などで不安視されたが、それが的中してしまった。初日に豊ノ島に上手投げで敗れた後2日目から3連勝したが、5日目に栃乃洋に押し倒しで敗れた際に左肘を痛め6日目から途中休場。朝青龍の休場は2007年11月場所以来、途中休場は2006年5月場所以来のこととなった。, 2008年9月場所では中日までに、雅山、安美錦、豊ノ島に敗北した。豊ノ島戦はテレビ映像では微妙で抗議もあった[30]が、砂に足が付いた跡が残っていたとされる[31]。, 引退説まで囁かれたが、大鵬と九重理事(元千代の富士)はいずれも「(まだやれることを)考えるべきだ」と述べた[32]。9日目までの5勝4敗という成績を受け、この日武蔵川理事長は休場を勧告し、10日目から休場することとなった。2場所連続休場はサッカー問題で出場停止処分を受けた2007年9月場所と11月場所を除けば自身初となる[33]。武蔵川理事長は復帰後の場所で、進退がかかることを示唆し[34]、朝青龍も進退をかけることを明言した[35]。11月場所は休場。, 2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰された状況で臨んだが[36]、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。, 場所前はマスコミは進退問題をこぞって取り上げたが、優勝後も「相撲内容は安定感を欠いた」「稽古は不十分」「力の衰えを感じさせた」とバッシングを続けている。中には「4日目までに2勝2敗、7日目までに4勝3敗だったら、引退に追い込まれていたかもしれない」[37]、「軍配は白鵬、動が静をわずかに上回った」[38]とタラレバを論った批判まで存在した。2009年3月場所は、初日から9連勝と全く隙のない相撲を見せていたが、10日目に過去14勝2敗と圧倒していた日馬富士に敗れてからは自分の相撲が取れず、結局11勝4敗に終わった。場所後、日馬富士戦で肋骨骨折していたことが判明した[39]。, 2009年5月場所直前、朝青龍は申請していた日本国の永住権を取得したことを明らかにしたが、親方として相撲協会に残る際に必要となる帰化は行わなかった[40]。, 2009年5月場所は3日目に安美錦に負けたが、13日目まで白鵬・日馬富士・稀勢の里らと4人で優勝争いをしていたが、14日目の日馬富士戦で負けた時に腰を負傷、千秋楽まで取り切ったが12勝。, 2009年7月場所は初日から7連勝したが、8日目の稀勢の里戦に負けてから失速し10勝。しかし日馬富士戦で34年ぶりの大技である櫓投げで勝った。, 2009年9月場所は、初日から14連勝。全勝優勝がかかった千秋楽で横綱白鵬に寄り切りで敗れたが、優勝決定戦ではその白鵬をすくい投げで破り、北の湖に並ぶ通算24度目の優勝を果たした。この日は自身の29歳の誕生日でもあった。, 2009年10月、M資金詐欺で1億2000万円を騙し取られていたことが週刊誌で報じられた[41]。, 2009年11月場所は、初日から11連勝したがその後4連敗し、11勝4敗で終わった。, 2010年1月場所は千秋楽前の14日目、日馬富士に1分13秒の大相撲の末下手投げで下して優勝を決め、2場所ぶり25度目の優勝を果たした。しかし千秋楽結びの一番では、白鵬に寄り倒されて13勝2敗の成績となった。特に本割での白鵬戦は7連敗となり(ただしその間に優勝決定戦で2回勝利)、横綱同士での対戦成績としては男女ノ川が双葉山に喫したワースト記録に並んだ。また、これが結果的に横綱・朝青龍として現役最後の一番となってしまう。, 1月場所中の7日目(1月16日)未明、泥酔して暴れる騒動を起こしたと写真週刊誌に報じられ、同1月場所の千秋楽翌日の1月25日に、日本相撲協会の武蔵川理事長から厳重注意処分を受けた[42]。ところがそれから3日後の1月28日、同日発売の週刊新潮[43]の記事によるとその被害者は、当初名乗り出た一個人マネージャーではなかったことが発覚[42]。2月1日には、同協会の(理事選挙後の)新理事会で、調査委員会の設置が決まった[44]。被害者男性は当初は一般人と報じられていたが、実際には半グレ集団(関東連合[45])のリーダーであり[6]、2011年に知人男性を暴行した傷害容疑で逮捕された[46]。, 2010年2月4日、日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、突如暴行問題の責任を取る形で現役を引退することを表明した[47]。同時に横綱審議委員の鶴田卓彦委員長(元日本経済新聞社社長)からは横綱として初の「引退勧告書」が提出された[48]。この引退表明は大きく報じられ、一部の新聞では号外も発行、繁華街や都市部で配布された[49][50][51][52]ほか、テレビ各局の同日夕方以降のニュース番組で緊急特集が組まれた。, 高砂は「力士には怒って伸びる力士と、ダメになる力士がいる。朝青龍は後者だ」と言ってトラブル続きの朝青龍をかばい続けていたが、それが仇となった[4]。, 同じくモンゴル出身で、この日から事実上の一人横綱となった白鵬は同日中に宮城野部屋で緊急記者会見を開き、「信じたくない。まだやり残したことがあったと思う」と涙ながらに語るなど[53]、先輩横綱の突然の引退による衝撃をうかがわせた。次の2010年3月場所の大相撲番付表は、番付編成会議の数日後ながらも横綱・朝青龍の四股名は完全消滅し、東横綱に白鵬ただ一人の名前が記された。, 引退の直因となった暴行事件に関して、2010年7月9日、警視庁に傷害の疑いで書類送検された[54]。, 断髪式は同年10月3日に両国国技館で行われ、モンゴル国首相のスフバータル・バトボルド、日本国元首相の森喜朗、横綱の白鵬ら約380人が鋏を入れ、師匠の高砂が止め鋏を入れた[6]。「私の体の中には二つの心臓がある。生んでくれたモンゴルと育ててくれた日本を愛している」と述べ、土俵に別れのキスをして花道を後にした[55]。同日、断髪後の公開記者会見で「生まれ変わったら大和魂を持った日本人として横綱になりたい。」と述べている[56][6]。, なお、同月5日に出版された「朝青龍との3000日戦争」(横野レイコ著)には、当初は被害者の一般男性が「殴られた」と報道されていたが、朝青龍の払った手が男性の鼻に当たって骨折したのが実際であり、被害者は「朝青龍を引退させないで」と協会に嘆願書を出していた事実があったことが記されている[57]。, 2011年5月14日には東日本大震災で多大な被害を受けた、宮城県南三陸町の避難所「ベイサイドアリーナ」を訪れ「頑張れ! 南三陸町」とプリントされたTシャツ450枚、「朝青龍バスタオル」120枚を配布。焼きそばやたこ焼きを約1000人分を自ら配膳し、サインにも快く応じて被災者を励ました。, 2012年5月にウランバートル市内で酒を飲んで車を運転して自損事故を起こしたうえ、警察官に暴行し罰金1200円と警察官の制服代金を払っていたことが分かった[58]。, 同年8月20日にはモンゴル国営テレビ総裁ナランバータルを公衆の面前で殴り、警察に逮捕され2日間拘留された。30日朝には兄スミヤバザルが身元保証人として警察を訪れ、保釈された[59]。ナランバータルは6月26日にダグワドルジから、兄スミヤバザルをテレビ演説させてほしいと依頼されたが国政選挙の期間中で禁じられているため断った。これに腹を立てたダグワドルジが、20日のエスンズイル村記念祭の時に公衆の面前で殴ったという。暴行に関し、ナランバータルからは民事訴訟も起こされた。, 2013年にはかねてより名誉会長の職にあったモンゴルレスリング協会の会長に就任した[60]。, 2013年10月31日にモンゴル・ウランバートル市内で開催されたハロウィンパーティーの席でダグワドルジが酒を飲み過ぎて酔った末に、口論となった参加者をナイフで刺して国外逃亡したと、11月1日付のウヌトル紙などモンゴルの新聞各紙が報じた[61]。 一方で、酒に酔って口論となった参加者を数回殴ったダグワドルジに対して相手が殴り返したうえサラダナイフで攻撃し、ダグワドルジが顔を切り付けられたと主張する報道も存在する[62]。最終的にはダグワドルジの国内マネージャーが「口論の最中に身振り手振りが大きくなって相手が持っていた食器類が顔に当った」と証言したことで真相が明らかになり、現地警察から「クラブで普通のケンカがあり、朝青龍は手当を受けた。両者は話し合いのうえで別れており、朝青龍は逃亡していない。事情聴取はするかもしれないが、逮捕などの可能性はない」という見解が為された[63]。, 2014年9月7日、国際レスリング連盟の理事選にモンゴル国代表として立候補したが落選した[64]。, 2016年5月29日、モンゴルの大先輩である旭天鵬引退相撲において断髪式で鋏を入れ、久々に国技館の土俵に姿を見せた[65]。, 2016年8月22日、リオデジャネイロオリンピックにてモンゴルレスリングのメダルなしの結果を受けて、モンゴルレスリング協会の会長を辞任することを表明[66]。, 2017年8月3日、新しくモンゴル大統領に就任したハルトマーギーン・バトトルガより日本担当の外交顧問および大統領特別大使として指名された[67][68]。, 2017年11月11日に公開されたジェット・リー監督作「功守道」にアリババのCEOであるジャック・マー、アクションスターのドニー・イェンやサモ・ハン・キンポー、映画マトリックスの武術指導でも有名なユエン・ウーピンら著名人とともに出演した[69]。, 2017年大晦日、「朝青龍を押し出したら1000万円」(AbemaTV)で、7年ぶりに土俵に立ち、格闘家のボブ・サップ、柔道家の泉浩、元大関・琴光喜といったVIPチャレンジャーと、スーパー・ササダンゴ・マシンら5人の一般チャレンジャーの計8人と特別ルールで対決し、8戦全勝を飾った。勝利後のインタビューでは、「いい相撲、いい思い出になりました」と語り、「相撲は人生最後。もう、上がることは絶対にしない。ダグワドルジに戻る」と完全引退を宣言した。[70][71], 2020年7月16日、自身のTwitterで再婚を報告し、草原で撮影した婚約者とみられる女性とのツーショット画像を掲載した[72]。, 貴乃花および白鵬とともに「平成の大横綱」と呼ばれている(ただし不祥事が続いての引退のため、異論を唱える者もいる)。, 四股名は高校在学時に世話になったという高知県土佐市の青龍寺に由来して名づけられた。また「明徳」という名は出身校の明徳義塾高等学校にちなんで名づけられた。師匠の高砂には「一番手こずらされた弟子」と評され、「取組後の感情がコントロールがうまくない、すぐに泣く、騒動時はショックで放心状態だったりと、感情の起伏が激しく繊細」と分析されていた[73]。後年こそふてぶてしい性格で知られるものの、新入幕から新三役までの時期に関しては雑誌『相撲』にて「純真そのもの」と評されていた[8]。是非論争を巻き起こした横綱時代の土俵上での派手な振る舞いは、自分の相撲を観たいと思っているファンに向けてのことであった[74]。, 愛称は本名からとった「ドルジ」、ファンタのCMでのキャラクター「ファン太郎」など。また、新聞の見出しや星取表などでは「朝青」という略語も見られた。, 朝青龍を平仮名にしたときの「あさしょうりゅう」は、拗音を1字と数えて8文字であるが、これは引退済みを含む全力士の中でもっとも長い四股名である。, 左利きであり、塩を左手で撒く数少ない力士の一人であった(左手で塩を撒いても作法上問題はない。また、ちゃんこを食べる際、箸も左手で持っていた)。, 兄にレスリング選手・総合格闘家でモンゴル人民党所属の国民大会議議員であるドルゴルスレン・スミヤバザルと、プロレスラーのブルー・ウルフがいる。甥は立浪部屋の豊昇龍智勝(ほうしょうりゅう ともかつ、本名スガラグチャー・ビャンバスレン、長兄スガラクチャーの次男)。東関部屋の大天馬明(だいてんま あきら、本名ナサンジャルガラ・チンゾリグ)は遠縁にあたる[75]。, 付け人の元三段目・熊郷(本名・熊郷克彦)は、「横綱になって1、2年は病んでましたからね」と明かしており、一生懸命相撲を取っているのに理解されないことに朝青龍は付け人の前で泣いていたという[74]。熊郷はまた内館牧子が朝青龍を「人たらし」と評したことについて「その日の気分もあるけど、計算ずくじゃなくて自然体」と2019年の取材で話している[74]。, 引退後はTwitter上のコメントで話題を集めており片言の日本語で過激なツイートを行うことはたびたび週刊誌やスポーツ新聞などの記事にもなっている。Twitterでは自身を「朝様」と呼んでいる[76][77]。, 朝青龍の幕内における最多連勝記録は、35連勝である。(2004年1月場所初日-2004年5月場所5日目)
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