Copyright © since 2008 ”üpŽU‰Ø•Û‘¶‰ï All Rights Reserved. - ©Copyright2020 西国三十三所 初心者ガイド.All Rights Reserved. ・第 1号襖~第 4号襖 原画特別公開 ・第 2号襖~第 4号襖 模写途中公開 ・第25号襖~第28号襖 模写公開; 令和 2年 11月 16日 導き観音護摩祈祷; 令和 2年 12月 16日 導き観音祈願会:礼拝会; news. 西国三十三所早創1300年記念事業では、御朱印を頂くとオリジナルの散華を頂けます。 奈良県葛城市にある當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院です。そして、西南院は双塔を見渡せるお庭でも有名です。特に紅葉の見頃の時期は迫力があります。また、他の季節にも色んな花が楽しめる趣向になっていま Copyright(c) forTravel, Inc. All rights reserved. 2008/06/15 2008/06/15, 梅雨の晴れ間、曇り空ながら蒸し暑さもなく、絶好の散策日和となったこの日、當麻寺を訪れました。近鉄当麻寺駅から當麻寺まで続く町並みも落ち着いた雰囲気で、なんだか”ほっこり”する気持ちの良い散策となりました。大和と河内の境界をなす二上山の東麓にあり、中将姫ゆかりの蓮糸大曼陀羅や天平時代の東西の三重塔(国宝)、日本最古の梵鐘や石燈籠などでも知られています。現在は、浄土宗と真言宗の二宗で護持されている珍しいお寺です。, 12時過ぎに近鉄当麻寺駅に到着。横浜から新大阪まで行き、天王寺で近鉄に乗り換え。近鉄阿倍野橋から当麻寺までは準急で約40分。関西に住む親友のIさんと天王寺で合流しました。, 当麻寺駅にある案内板Iさんは高校時代にこの辺りを歩いたことがあるそうですが、私は初めてです。, 葛城市相撲館けはや座駅から徒歩約5分當麻は相撲の始祖といわれる當麻蹶速(けはや)の出身地。相撲に関する資料を展示する施設です。, 蹶速塚相撲館のすぐ横にあります。垂仁天皇の時代に、當麻蹶速は出雲出身の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをして蹴殺されたが、地元の英雄と語り継がれています。, 参道を進むと當麻寺の三重塔が見えてきます。日曜日だというのに、観光客はほとんど歩いていません。, 當麻寺の門前にあるそばや「稜」道を歩いている人はいませんでしたが、この店は満員でした。評判のそばやだそうですが諦めました。, 當麻寺の解説當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。用明天皇第三皇子麻呂子親皇王が推古天皇20年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、その後天武天皇白鳳11年(681)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移し、この地の豪族當麻氏の氏寺として整備したそうです。, 中将姫(ちゅうじょうひめ)の銅像奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母をなくし継母に育てられましたが、継母に嫌われ、山に捨てられました。その後、當麻寺に入り、1000巻の写経を成し遂げ17才で中将法如として仏門に入り、曼荼羅を織ることを決意しました。一夜にして1丈5尺(4m)四方の當麻曼荼羅(国宝)を織り上げたといわれます。29才の春、雲間から一条の光明とともに阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は西行極楽浄土へ旅立たれたということです。この伝承は、毎年5月14日「練供養」として再現されています。(中将姫の解説より), 當麻寺 本堂(曼荼羅堂、国宝)當麻曼荼羅(国宝)が本尊です。本堂内には、中将姫像、阿弥陀如来像、十一面観音像が安置されています。, 當麻寺 金堂鎌倉時代に再建された入母屋造りの建物。堂内には、わが国最古の塑造で国宝の弥勒仏坐像や四天王立像が安置されています。(残念ながら、堂内は撮影禁止です。), 當麻寺 石燈篭(重文)金堂の南側にあるこの石燈篭もわが国最古のものだそうです。白鳳時代に松香石で作られたもの。, 當麻寺 講堂金堂の北側に立つ寄棟造りの建物で鎌倉時代に再建されたもの。堂内には、藤原末期の阿弥陀如来坐像、紅玻璃阿弥陀坐像、妙幢菩薩立像などが安置されています。, 當麻寺 西南院の見晴台から望む東西の両塔手前が西塔、奥が東塔です。東塔は天平時代に、西塔は少し遅く天平末から貞観頃に造られたもの、両塔ともに国宝に指定されています。, 當麻寺 塔頭 奥院の本堂(重文)京都知恩院の12世誓阿普観が応安3年(1370)に建てたもので、南北朝の動乱期に知恩院の本尊として安置されていた法然上人像(重文)などの寺宝をこちらに移したことから、知恩院の奥の院と呼ばれるようになったそうです。, 14:30頃、當麻寺の散策を終え、近鉄当麻寺駅のホームから見た二上山満足の當麻寺でした。次は、飛鳥へ向かいます。, 利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 フォートラベルポイントって?, おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします! 発大清浄願(はつだいしょうじょうがん), 頂いた散華は観音様からの大切な授かりものなので、大切に保管します。西国三十三所専用の散華台紙が市販されているので、保管にはオススメ。一部の札所では納経所でも販売しています。, 札所をめぐりながら、少しずつ埋まっていく感覚も楽しいですね。西国三十三所めぐりをする楽しみの一つになりました。, 御朱印ガールとしても有名な篠原ともえさんは、散華・散華が大好きで頂いた御朱印は御朱印帳に貼って保管しているとか。自分にあった保管方法を探すのも楽しいですね!, 1.クラブツーリズムのサイト(下記参照)へ 侍多千億佛(じたせんのくぶつ) QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。, 掲載のクチコミ情報・旅行記・写真など、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます。. B. 2.歴史・文化「お参り・巡礼の旅(こころの旅)」をクリック 葛城市相撲館けはや座 駅から徒歩約5 歴劫不思議(りゃくこうふしぎ) 『梅雨の晴れ間、曇り空ながら蒸し暑さもなく、絶好の散策日和となったこの日、當麻寺を訪れました。近鉄当麻寺駅から當麻寺まで続く町並みも落ち着いた雰囲気で、なんだか”...』御所・葛城(奈良県)旅行についてmorino296さんの旅行記です。 (奥院:0745-48-2008/護念院:0745-48-2004/西南院:0745-48-2202/中之坊:0745-48-2001). 散華(さんげ)とは? 西国三十三所早創1300年記念事業では、御朱印を頂くと オリジナルの散華 を頂けます。 散華(さんげ) とは、「蓮華(ハスの花)の花びら」を模した紙のお守り。 散華(さんげ)とは、「蓮華(ハスの花)の花びら」を模した紙のお守り。, 西国三十三所各札所で御朱印を頂くと授与して頂けます(無料)。御朱印帳と一緒に渡して頂けるケースが多いですが、自己申告すれば無料で頂けます。, 西国三十三所オリジナル散華には、札所ごとに観音経の一字が書かれています。各札所分すべて集めると、観音経の一部が完成するというもの。, 汝聴観音行(にょうちょうかんのんぎょう) šã§ãŠè¶Šã—の際は、途中で車両が切り離され、乗車位置によっては当麻寺駅に着かないことがありますのでご注意ください。, 二上山の東麓 浄土宗の大和本山, 拝観時間: 9時~17時拝観料: 大人500円(宝物館入場料含む) 子ども250円, 納骨等法事の受付:10時~16時※時間外はお電話ください。, 当サイトの運営は當麻寺 奥院が行っております。當麻寺寺務所ではありませんのご注意ください。, 奈良県で納骨永代供養といえば當麻寺奥院へ, 参道を通らない奥院駐車場へのルート, 参道を通らない奥院バス駐車場へのルート. 赤や紅、白、紫、桃色など約200株、約40種類の寒牡丹が咲き誇る。一斉に咲く... 樹齢250年の古木。お寺の城壁に覆いかぶさるようなダイナミックな枝ぶりで、紅色の... 清冽な地下水が流れる名水地「清水町」で、江戸時代以前に創業の酒蔵を明治十年に... 「梅乃宿」は1893年創業の地酒蔵。近年は日本酒だけでなくリキュール等、若い世代... まほろばステーション ikarucokiとは?店名の「ikarucoki(イカルコキー)」とは、斑... 「まほろばキッチン」は、全国最大級の売り場面積を有する農産物直売所を中心に産... 山の辺の柿の葉すしは、明日香村の契約農家から仕入れるヒノヒカリ、塩は赤穂、鯖... (C) Nara visitors Bureau, All Rights Reserved. 当麻寺ハイツ(葛城市當麻)の建物情報。間取り図や写真、家賃・価格や、建物内に賃貸や中古マンションの空室・売出し情報があるか確認できます。【不動産アーカイブ】なら日本全国にある250万棟以上の建物から住まいを探すことができます。 ※Go Toトラベルキャンペーンは2020年10月発~2021年1月31日(宿泊旅行2021年2月1日帰着)までが対象(予定), 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 岡寺 在岡寺,自4月至12月來訪的遊客,可以進入本堂後室內部參拜正尊佛像。 安倍文殊院 在安倍文殊院,以抹茶和點心接待遊客。並在本堂為團隊遊客實施「心願成就」祈禱。 向預約的團隊遊客贈送「一套4張佛像結緣散華」。 612年、聖徳太子の弟、麻呂子親王が創建。のち681年に孫の當麻国見がこの地に遷造したと伝えられ、豪族當麻氏の氏寺として栄えた。天平建築としてを東・西に二基の三重塔が並ぶのは全国でもここだけで、鎌倉時代に再建された金堂、講堂とともに白鳳伽藍を今に伝えている。 弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい) 3.出発地から探す ≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら! tel 0745-48-2008; fax 0745-48-6668; 当サイトの運営は當麻寺 奥院が行っております。 當麻寺寺務所ではありませんのご注意ください。 二上山の麓にある広い境内には、二つの三重塔など数多くの文化財があり、約5,000株のぼたんの咲く時期には、最も華やかに彩られます。, 奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット(当サイト)では一部の地図表示に「国土地理院地図」を使用しています。. 問題のある投稿を連絡する, マイルに交換できるフォートラベルポイントがたまります。 『 近鉄南大阪線当麻寺駅で降りると線路の向こうから山側に向かって伸びる直線の道路がある。道は狭いがこれが当麻寺の門前町である。両側の家々の瓦屋根には大黒さまと恵比...』御所・葛城(奈良県)旅行についてドクターキムルさんの旅行記です。 松島・河原 (1988) pp.139 - 141, 154, 156 - 158; 『週刊朝日百科 日本の国宝』4号, p. 松島・河原 (1988) pp.139, 164 - 165, 169 - 170, 松島・河原 (1988) pp.162 - 163, 165, 168, 170 - 171, 松島・河原 (1988) pp.55 - 57, 67, 120 - 127; 山岸 (1999) pp.33 - 42, 松島・河原 (1988) pp.19, 21, 79 - 82; 山岸 (1999) p.40, 近畿日本鉄道・近畿文化会編『当麻』pp.59- 65; 『週刊日本庭園をゆく 15 奈良の名園』pp.20 - 24, 松島・河原 (1988) pp.131 - 133, 194 - 195; 「新指定の文化財」『月刊文化財』312号、第一法規、1989、pp.22 - 28, 松島・河原 (1988) pp.83- 92; 『日本古寺美術全集 8 室生寺と南大和の古寺』p.117 - 119, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=當麻寺&oldid=79775696, 中之坊 - 高野山真言宗の子院。かつての名称は中院で當麻寺最古の子院。中将姫剃髪の地と伝承され、中将姫の仏法の師である実雅の開山という。また、, 茶室「丸窓席」 - 4畳半の茶室は北側に大きな丸窓を設けることから「丸窓席」と呼ばれる。後西天皇の行幸に合わせて, 庭園「香藕園」(国の名勝及び史跡) - 築地塀で内庭と外庭に分かれ、内庭は當麻寺の東西両塔を借景とした池泉回遊式庭園。外庭は山の斜面に造園されている。後西天皇の行幸に合わせて片桐石州が改修したと伝える。, 庭園 - 江戸時代初期に作庭されたものだが、後に一音法印によって改修された。西塔を借景とする池泉廻遊式庭園。, 護念院 - 浄土宗子院。當麻寺練供養会式の菩薩面や装束の一切を管理している。庭園は牡丹と, 綴織当麻曼荼羅図 - 「当麻曼荼羅と中将姫伝説」の節で述べた「根本曼荼羅」である。, 當麻寺仁王門(建造物) - 所有者は當麻寺。1999年(平成11年)3月19日指定, 當麻寺大師堂(建造物) - 江戸時代初期、正保3年(1646年)の造営。所有者は西南院・中之坊・不動院・松室院・竹之坊。2003年(平成15年)3月31日指定, 絹本著色中将姫像(絵画) - 鎌倉時代の作。所有者は中之坊。2011年(平成23年)3月30日指定, 銅版押出仏断片 2軀(彫刻) - 奈良時代の作。所有者は奥院。1960年(昭和35年)7月28日指定, 木造阿弥陀如来立像(彫刻) - 鎌倉時代の作。所有者は當麻寺。1998年(平成10年)3月20日指定, 木造来迎会所用面 28面(彫刻) - 内訳は以下。鎌倉時代から江戸時代頃の作。所有者は當麻寺。2017年(平成29年)2月14日指定, 梵鐘(工芸品) - 南北朝時代、文和3年(1354年)の作。所有者は護念院。1997年(平成9年)3月21日指定, 刺繍善導大師像(工芸品) - 南北朝時代から室町時代頃の作。所有者は念仏院。2006年(平成18年)3月31日指定, 井上靖、塚本善隆監修、富岡多恵子、中田善明著『古寺巡礼奈良7 当麻寺』、淡交社、1979, 『週刊朝日百科 日本の国宝』4号「法起寺・中宮寺・当麻寺・当麻寺奥院」、朝日新聞社、1997, 山岸常人「伝説の地に建つ中世仏堂」『朝日百科 日本の国宝 別冊 国宝と歴史の旅 2』、朝日新聞社、1999, 『週刊日本庭園をゆく 15 奈良の名園』(小学館ウイークリーブック)、小学館、2006. 善応諸方所(ぜんのうしょほうしょ) 寺院・散華紹介 當麻寺は、大和の西方を象徴する寺院で、全国で唯一、天平時代の三重塔を東西二基とも残すことで知られる。 我が国最古の塑像である弥勒仏坐像、最古の乾漆像である四天王立像などの貴重な白鳳仏も伝えている。 當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県 葛城市にある寺院。 法号は「禅林寺」。山号は「二上山」 。 創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。 宗派は真言宗と浄土宗の並立となっている。 近鉄阿倍野橋から当麻寺までは準急で約40分。 関西に住む親友のIさんと天王寺で合流しました。 当麻寺駅にある案内板 Iさんは高校時代にこの辺りを歩いたことがあるそうですが、私は初めてです。 駅前にあるよもぎ餅の中将堂. 11月 2日 更新 4年に一度の書院特別公開:襖絵模写の比較展示 當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」[注釈 1]。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は真言宗と浄土宗の並立となっている。開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。, 西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年4月14日(2019年より、明治期 - 2018年までは5月14日)に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。, 本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。, 中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった[1]。, 古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、弘文天皇元年(672年)の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる[2]。, 当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。, 當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない[3]。, 当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという[4]。, 建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院(万法蔵院)として河内国に創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地(現・當麻寺がある当地)の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に寺名を當麻寺として供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府南河内郡太子町山田とする説がある[5]。, 以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している[6]。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる[7]。, 奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。当初は三論宗の寺院であったが、『弘法大師年譜』に弘仁14年(823年)、空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降當麻寺は真言宗寺院となったという伝えがある[8]。當麻出身の恵心僧都源信が寛弘2年(1005年)に当寺で迎講を行ったが、これがやがて現在の聖衆来迎練供養会式となっていった。, 治承4年12月28日(1181年1月15日)、平重衡の南都焼討により、東大寺、興福寺などは伽藍の大部分を焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂や講堂などを焼失した[9]。, 平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。, 南北朝時代の応安3年(1370年)に京都知恩院12世の誓阿普観が当寺の境内に往生院(現・奥院)を創建し、それ以後は真言宗と浄土宗の二宗兼学の寺院となった。, 江戸時代の宝暦年間(1751年 - 1764年)、真言宗僧のみで行われていた曼荼羅堂の法会参集に浄土宗僧の参加が認められるようになった。この頃には31の子院があったが、現在は13の子院が残る。, 当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。, 当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。, 當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃、歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。, 今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。, この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。, 当麻曼荼羅の原本(「根本曼荼羅」)は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、1961年(昭和36年)に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定されている。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8センチである。図様は前述のとおり、『観無量寿経』の所説を図示したもので、善導の『観経四帖疏』に基づいて構成されている。『観経四帖疏』は「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」の4帖からなるが、当麻曼荼羅では画面の主要部が「玄義分」、左辺、右辺、下辺の小画面がそれぞれ「序分義」「定善義」「散善義」にあたる。「玄義分」にあたる主画面には、転法輪印を結ぶ阿弥陀如来を中心とする阿弥陀三尊と左右各17体の菩薩からなる三十七尊を表し、その上下に宝池や楼閣などを表す。左辺の「序分義」は『観無量寿経』の序にあたる部分で、浄土往生の機縁となるマガダ国の王妃韋提希(いだいけ)夫人の説話(「王舎城の悲劇」)を主題とする。右辺の「定善義」は、『観無量寿経』に説く十六観のうちの13の観法(阿弥陀浄土をイメージし認識する方法)を主題とする。下辺の「散善義」は九品往生図で、十六観のうちの残りの3つにあたるものである。根本曼荼羅は画面下方の損傷が激しく、九品往生図の部分のオリジナルの綴織は失われているが、後世の模本や『建久御巡礼記』の記述によると、この部分には「織付縁起」と呼ばれる、曼荼羅の由来を記した銘文があり、その中に「天平宝字七年」(763年)の年号があったという[10]。, 根本曼荼羅は損傷が激しいため、かつては絵画か染織品かはっきりせず、絵画説、織物説、刺繍説などが存在したが、1939年(昭和14年)からの大賀一郎らによる学術的調査により、織物であることが判明した。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸に平金糸、撚金糸を交えた綴織である。縦横とも4メートル近い大作である本曼荼羅を織り上げるには十数年を要するという。製作地については日本説と唐説があり、前述の「天平宝字七年」という年記を製作の年とみるか、當麻寺に施入された時期とみるかによって変わってくるが、唐製とする見方が有力である。染織史研究者の太田英蔵は、日本には綴織の作例が少なく、特に本作のような絵画的な図柄を表した大作は他に例がないことなど、技法・図様の両面から本作は唐製であるとしている[11]。, 宮内庁正倉院事務所の尾形充彦は、2013年(平成25年)の特別展「當麻寺」(奈良国立博物館)に際し、小型顕微鏡を用いて、あらためて本品を精査した。その結果、本品は絹布に彩色したものではなく、先染めした絹糸を用いたものであり、総合的に見て錦や刺繍ではなく、綴織と見られるとあらためて結論した。尾形はまた、本品のような複雑な図様で広幅の綴織を製作する技術が上代の日本にあったとは考えがたく、本品は大陸製であろうとしている[12]。, 曼荼羅は元は本堂の厨子内に掛けてあったが、傷みの激しくなった中世に板貼りに改装され、江戸時代には板から剥がされて再度掛軸に改装されている。京都・大雲院の僧・性愚(しょうぐ)という人物が、江戸時代の延宝5年(1677年)に行われた曼荼羅修理の状況を記録に残している。それによると、曼荼羅を板から剥がすために表面に楮紙を貼り、水を注いだところ、大きな音とともに剥がれ落ちた。剥離した織物の残片を板と紙の双方から集めて、別に用意していた絹地の上に貼り付け、織物が劣化損耗している部分は絵で補った。織物が張ってあった板にも図様が残り、剥離に用いた楮紙にも図様が転写された。このようにして、オリジナルの綴織曼荼羅は、残片を貼り集めた掛幅本と、板、紙の3者に分離した。残片を貼り集めた掛幅本が現存の国宝曼荼羅で、全体に劣化、損傷、退色が著しく、オリジナルの綴織の残存している部分は図柄全体の4割程度である。特に図の下部は全く失われて絵画で補われているが、阿弥陀三尊の右脇侍(向かって左)の部分などにはオリジナルの織物が比較的良好に残っている。板貼りの曼荼羅を剥がした後、板の表面に剥がれた曼荼羅の跡が残ったものは「裏板曼荼羅」と称し、曼荼羅厨子の背面に安置された。一方、剥離の際、紙に転写されたもの(印紙曼荼羅)は一部が表装されて残り、西光寺(京都市東山区清水坂)に所蔵されている[13]。, 根本曼荼羅は、製作から4世紀以上経った鎌倉時代にはすでにかなり傷んでいたようで、建保5年(1217年)には第1回の転写本である「建保曼荼羅」が制作された。この第1回転写本は京都の蓮華王院(三十三間堂)に収められ、後に當麻寺に戻ったというが、現存していない。2回目の転写本は法橋慶舜の筆で、文亀2年(1502年)に図柄が完成し、永正2年(1505年)に供養された「文亀曼荼羅」(重要文化財)、3回目の転写本は、貞享2年(1685年)の裏書がある「貞享曼荼羅」で、これらはいずれも織物ではなく絵画である。現在、當麻寺本堂(曼荼羅堂)の厨子に掛けられているのは文亀曼荼羅または貞享曼荼羅である[14]。, 根本曼荼羅は損傷が激しく、基本的には非公開である。ただし、ごく稀に博物館の特別展で公開されることがある。2013年(平成25年)4月から奈良国立博物館で行われた「當麻寺 -極楽浄土へのあこがれ-」展では30年ぶりに根本曼荼羅が公開され話題となった。2018年(平成30年)7月からも前回公開からわずか5年ぶりに修復作業が終わった根本曼荼羅が、奈良国立博物館で行われる予定の「糸のみほとけ」展で公開された。, 現在の當麻寺には、南を正面とする金堂と講堂が南北に並んで建ち、これらの西側には東を正面とする本堂(曼荼羅堂)が建つ。日本の古代寺院は南を正面とするのが通例だが、當麻寺の境内は南と西に山が迫っていて、南側に正門があった形跡はなく、境内東端の東大門が正門となっている。中心伽藍の南方には東西2つの三重塔が建つが、これら両塔の建つ位置は台地の先端にあたり、金堂、講堂などの建つ地盤よりは6-7メートル高い場所である。また、東塔と西塔は金堂・講堂を結ぶ伽藍の南北中心軸からみて、正確に左右対称の位置には建っていない。このような平地と台地の境を選んで伽藍を建立した理由はわかっていないが、本堂の地下からは墳墓が検出されており、当麻氏の祖先が眠る由諸ある土地に氏寺を建立したものと推定されている[15]。, 當麻寺自体の本坊はなく、境内には高野山真言宗5院、浄土宗8院の子院がある。當麻寺本堂(曼荼羅堂)は真言宗と浄土宗の兼帯で、金堂、講堂、塔などは真言宗が管理している。, 国宝。金堂本尊。日本最古の塑像。像高219.7センチメートル。如来形の弥勒像で、様式から當麻寺創建時の7世紀末頃の作と推定され、仏壇上に残る痕跡から、元は両脇侍像をしたがえた三尊形式であったと推定される。像は箱型の裳懸座(宣字座)上に結跏趺坐し、台座の前面に裳裾を広げる。印相は如来像に通有の施無畏与願印(右手は掌を正面にして挙げ、左手は掌を上にして膝上に置く)だが、右腕の前腕部の半ばから先と左手首から先は木製の後補で、当初からこの印相であったかどうかは定かでない。また、金堂本尊の名称を弥勒とするのも、文献上は鎌倉時代の『建久御巡礼記』が初見で、当初から弥勒像として造像されたという確証はない。両膝部、胴部、頭部の3つのブロックを積み重ねたような造形は中国・隋代やその影響を受けた新羅の仏像彫刻、中でも新羅の軍威石窟三尊仏の中尊との様式的類似が指摘されている。球形を呈する頭部の造形には天武天皇14年(685年)完成の興福寺仏頭(旧山田寺講堂本尊)との類似も指摘されている。, 本像は塑像(粘土製の彫像)であるが、表面には布貼りをし、錆漆を塗った上に金箔を張っている。金堂は治承4年(1181年)の兵火で被害を受けており、像表面の金箔は治承の兵火以降のものとみられる。像本体と台座は密着しており、本体、台座ともに内部構造の詳細は明らかでない。1959年(昭和34年)、台座の修理に伴って西川新次が調査を行っているが、その際の報告書によると、台座の内部構造は日乾煉瓦を積んだものであり、治承4年(1181年)の兵火によるものとみられる焼痕が台座内に残っているという。現状は台座の四隅に木製の隅柱があり、台座上下の框(かまち)、反花(かえりばな)なども木製のものが貼り付けられているが、これらは治承の兵火以後のもので、当初の台座表面はすべて塑土で仕上げていたとみられる。, 像本体は、前述のように両手部分が木製の後補であるほか、左腕、両膝などの衣文に漆喰状のもので修理した部分があり、明治期の修理でも胸部などの損傷箇所に大幅な修理が行われている。螺髪は当初は塑造であったが、木製の後補のものに代わり、それも大部分脱落している。光背は平安時代後期か鎌倉時代初期頃の木製である。以上のように、本像は後世の補修部分が多いが、日本に現存する最古の塑像として貴重である。[26], 重要文化財。金堂須弥壇の四隅を護る。持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は日本最古の乾漆像である。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は静かな表情で直立しており、その顔貌には異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、多聞天像は全体が鎌倉時代後期頃の木造に代わっている。他の像も後補部分が多く、増長天像は下半身のすべてと両襟、両袖などが木造の後補であり、広目天像は頭部、両襟、両手の前腕部などに当初のものを残すほか、体部の大部分が木造の後補である。比較的当初の乾漆層を残すとされる持国天像も下半身や両袖などには大幅に修理の手が入っている。[27], 国宝。8世紀末から9世紀初頭の作。本堂(曼荼羅堂)内陣には高欄付の須弥壇を構え、その上に高さ501センチメートルの大型厨子を置く。厨子は仏像ではなく当麻曼荼羅を安置するためのものであるため、高さの割に奥行が浅く、平面形は扁平な六角形をなす。須弥壇は螺鈿や木目塗で仕上げられ、上框に寛元元年(1243年)の銘がある。また、厨子正面の扉は、仁治3年(1242年)の銘がある。このため、かつては厨子本体も鎌倉時代の作と考えられていた。しかし、本堂の解体修理に合わせ厨子の解体修理も行われ(1957年 - 1961年)、表面からは見えない天井板等の部材から金銀泥絵(きんぎんでいえ)や金平文(きんひょうもん)[注釈 3] の装飾が発見され、その技法や意匠から、厨子本体は平安時代初期にさかのぼる作品であることが明らかになった。軒裏には金平文で含綬鳥(がんじゅちょう)、孔雀、天人、宝相華などを表した痕跡があり、柱、台輪、桁、支輪[注釈 4]、天井板などには金銀泥絵で宝相華、飛雲、花喰鳥、山岳、蝶、日輪などの文様を表している。柱の根巻金具、台輪と桁の間にある木心乾漆製の獅子形(10箇)なども古様を示すものである。厨子正面の扉(左右各3枚ずつの折戸)は、仁治3年(1242年)に厨子の大修理を行った際に新調したもので、内面側は黒漆地に金蒔絵で蓮池を表し、その下には2,000名を超える結縁者の氏名がやはり蒔絵で表されている。なお、この扉は取り外されて奈良国立博物館に寄託されている。[28], 前述のとおり、本品の製作年代は8世紀末から9世紀初頭とされているが、奈良国立博物館の内藤栄は、本厨子に見られる金銀泥絵の草花文や柱の地付部の金銅金具の線刻山形文を正倉院宝物の同種の文様と比較検討した結果、本厨子の製作年代は奈良時代後期の760年代と推定している[29]。, 国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない[30]。, 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。, 台輪(だいわ)は、柱上に渡した水平材。桁は屋根荷重を受ける水平材。支輪(しりん)は高さの異なる水平材間に斜めに立ち上がる部材で、天井を一段高く折り上げる場合に用いる。.

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